un deux droit

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イソップ童話の「キツネとぶどう」とは少し違うと思ってる

今日も朝から晩までみっちり子どもと過ごした。朝ごはんを用意し、長女の習い事のピアノに付き添い、帰宅後すぐにオムライスを作り、食器を洗い、長女の自転車の練習のために公園に出向き、夕飯にたこ焼きパーティー。また食器を洗い、風呂を洗い、風呂に入れ、保育園に提出する日々の記録を書き、ドライヤーをし、部屋の片付けを片っ端から行い、絵本を読んでやり、今寝かしつけを終了した。
次女がひたすら肩車を要求し続けるのと、長女がひたすらピアノを一緒に弾こうとせがんでくるのを「いい加減しつこい!」とストレスの限界に達したのが計2回あったが、概ね父親としての役目は果たせたのではないだろうか。
妻が担当したのは私が長女のピアノに付き添っている間の次女のおままごとの相手、洗濯×2、洗濯物干し、長女の自転車指導(私は次女の遊び相手)、日用品等のweb購入、といったところ。今からアイロン。大半は新居の設備検討に費やしていた。家庭の円満のためにはこれくらいのバランスでオッケー。

ふと、休みが全て家庭のために費やされることに、いつの間にか何の葛藤や焦りも感じなくなっているなということに気づく。以前はこの時間を勉強やら運動やら人脈作りやらといった自己研鑽に100パー使える独身者と、とんでもない差が開いてしまっているような恐怖があった。しかし今は、その差がなんだというのだ、と開き直りに近い心境になっている。
多分そういう「キラキラ」した人達が視界から全て消え去ってしまって、自分の人生と完全に無関係になってしまったからだろう。誰がどこでどれだけ活躍してわんさか稼いでいようとお好きにどうぞ、という感じ。もうその凄さを算定する物差しが自分の中に亡くなってしまい、FBなんかを覗き見ても、もう書いてある文章全てがアラビア文字で書かれてるんじゃないかってくらい解読不能。徹底して無関係になると何の羨ましさもない。たぶんひたすら地位と名声と金回りでマウントしあってんだろうなってことだけがわかる。

しかし、30も半ばを過ぎ、自分が充実感を味わえる生活水準や環境が何たるかを見極め、それに必要なだけの収入が確保できればそれ以上はもう余剰でしかないな、と思うようになった。今以上の生活水準な環境を手に入れるために、努力や苦痛、時間の投下量を増やすと得られる幸福量が下がる。今が一番コストとリターンの差の大きい、バランスの取れた地点にいる。私より能力の高い人は腐るほどいるけれど、自分にとってちょうどいい地点を発見し、刹那的な誘惑に負けず、その地点に留まり続けられている人というのはなかなかいないんじゃないかと思う。
きっとマウントばっかりとっている人はオーバードーズなんだと思う。今発揮しているパフォーマンスのもう少し手前に、本人にとって実はちょうどいいコンフォートゾーンがあるはずなんだけど、なかなかそれを選ぶのは優秀な人ほど難しいんだろうな。ほんと自分はそこそこでよかったわ。