un deux droit

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誰もが誰とも紙一重

人は誰しもそれなりに脛に傷を持つエピソードは持っていて、たまたまそれが露見することなく時が過ぎ、あたかも聖人君主のように平気な顔をして暮らしている。何一つ後ろ指を指されるようなエピソードを持たない人などいない。長く生きていれば、警察に厄介になったり、補導や停学を食らっていてもおかしくないような悪事の一つや二つはやらかしている。今自分が当たり前のように常識人として振る舞い、世の悪事に眉を顰め非難できるのはたまたまだ。自分だって運が悪ければ非難される側に回っていた可能性がいくらでもある。

そんなボーダーライン上に自分の人生があるなんてことは普段意識しない。「今だから話せる」というお題を与えられ、そんなことあったかなぁと古い記憶を辿っていくと、そういやあれは危ない橋を渡ったなぁというエピソードをいくつか思い出し、そのたび肝を冷やす。

ニュースに流れてくる、社会的制裁を受けている人々と自分なんて、実はほとんど差異がない。自分なんてそんな程度なのに、普段はそんな事実すら完全に忘れ、自分をまるごと善人だと信じて疑わずに生活している。本当に図々しいし、おめでたい脳味噌だと思う。でもそうやって自分のダークサイドを忘却できる能力(の低さ)は処世術として大切だなと思う。実際の自分はどうであれ、一晩寝れば自分で自分のことを善人と思って朝目覚める能力(の低さ)のお陰で真っ当な人生を今のところ歩めている。自分のダークサイドを直視し続けたら必ず精神を病む。

人間は恐ろしい。そして自分自身でも自分のことはよくわかっていない。それでも平気な顔して暮らしている。そんな奇跡的で危ういバランスの上に私達の日常は成り立っている。勲章のようにして見せびらかす必要はまるでないけれど、時折こっそりと、自分の脛の傷を確認する習慣を持つのは社会生活を穏便に継続させる確率を高めるし、他人に優しくなれる秘訣でもある。