un deux droit

このブログには説明が書かれていません。

恥の神経回路を切りたい

今日は新規事業の正式リリースを営業に発表する日。4月から一部の顧客で試験運用をして一定のトラブルシューティングができ、採算性にも目処が立ったため、本格的に売出しを始める。言い出しっぺの私が発表者となるため、プレゼンで使う事業趣旨やサービス概要、価格と導入事例、セールストークなどを簡単に資料にまとめてみた。

脳内で何度かシミュレーションをしてみたが、うまくできるか動悸がする。どうして淡々と、明瞭な声で、堂々と立ち振る舞えないんだろう。サッカーの監督みたいに大声を貼り、相手の眼を見つめて、手を叩いたり腕を回してボディランゲージを多用しながら、全身でメッセージを伝える事ができる人間を尊敬する。自分は横断歩道の旗振りでさえ、スマートにできない。左手と右手がどう動けば相手がわかりやすく誘導されるのか上手くイメージがまとまらない。人に見られると思った瞬間に身体がすくむ。あぁ嫌な性分だ。

それにしても、正式リリースとは言え、ホームページだったりチラシだったりといったものはまだない。と言うかそこに対する予算化と人員配置を確保してもらえていない。経営陣とて永らく新規事業なんか立ち上げたことがないから及び腰になっているのだと思う。リスクを取ることを極端に怖がっている。リスクを負う代わりの高給ではないか。高給は譲らないがリスクは嫌だというなら、経営者に向いてない。

しかし、じゃあ自分が経営者という立場になれるかというとまた別の話。自分が新規事業を立ち上げようと息巻いていられるのは、極論を言えば自分が責任を取らなくていいからだ。上手くいかなくて失敗してもその損失は経営陣が負う。そこを精神的に依存しているから偉そうなことを言える。依存する先がないから経営陣はビビっている。同じ穴の狢である。

じゃあなぜその失敗や損失が怖いのかというと、突き詰めれば「恥」なのだ。失敗した事実や、損失を補填するために生活基盤が傾いた未来を想像すると屈辱感に満ち溢れてくる。しかしそれがなぜ屈辱なのかと突き詰めるとよくわからない。今挑戦をしないということは成功もしないということだけど、そっちの方はなぜ屈辱ではないのかと問われるとそれもよくわからない。

カーネマンによると、利得より損失の方を多めに計上するバイアスが人間にはプリセットされているようだが、私はその妄想で利害得失を勘定する回路を切りたい。主観的な妄想にすぎない計算に振り回されて忌々しい。うまくいかなくともやりたいことに挑戦できたなら良いではないか。

自分にブレーキをかけているものを破壊したらさぞかし気持ち良いだろう。ビビらない人がいるならその効果と思わぬ弊害について教えてほしい。なかなかそういう貴重な証言を聞く機会がない。もしかしたら恐怖心のなさ故に事故死したり犯罪に手を染めて収監されていて出会うことができないだけなのかもしれないが。