un deux droit

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いわゆる不便益というやつ

引越しを経て、最寄駅が変わった。

以前は快速が止まる駅の近くに住んでいたのだが、その駅よりも一駅博多に近く、けれども各駅しか止まらない駅。

当然ながら本数は減ったし、特急通過の待ち合わせで無闇に途中駅で待機したりと博多までは却って遠くなった感じなのだが、これがまた風情だなと感じている。

まず乗車する人が少ない。待合のベンチがガラガラでいつでも座れるし、程よく人が少ないというのは牧歌的で癒される。もちろん電車自体も混んでおらず、ほぼ高確率で座れるのもポイント高し。

さらに駐輪場の空きがすぐ見つかる。これはたまたまだけど高架下の駐輪場が充実していて荒天の時も雨晒しにならない。そういう日は西鉄バスで帰るのも手。また次の出勤の時バスで駅まで向かい、帰りに自転車で帰れば良い。

乗車時間がそれなりにあるというのは、本を読んだり、こうやってちょっとしたブログを書いたりするのにちょうどいい。以前は10分足らずで着いてしまい本を一章読むにも、ちょっとした作業を終わらせるにも中途半端だった。人は環境を変えるとその刺激で新たな着想を生んだりするものだが、その着想を形にするにはいささか忙しないのだ。

一軒家もそうだけど、空間や時間にゆとり、空白をあえて残すのが豊かさだなとしみじみと感じる。ひっきりなしに電車が来るような駅直結のタワマンで分刻みに行動するようなシームレスな暮らしもいいのかもしれないが、その
無駄な余白のない緊張感に長期間さらされると心が摩耗すると思う。いつも乗って見慣れていたはずの車窓も、鈍行のスピードでまじまじと見ると、これまでほとんどのものを見落としていたのだなということに気がつく。こんなところに中学校があったっけ、あの商店街雰囲気がいいな、あそこの土地が更地になっているぞ、ここにあの会社の工場があったのか、などなど、街の変化や彩りが楽しい。

テレビ番組やセミナー動画を倍速で見るのが好きな人、またそれが一流のビジネスパーソンの賢い時間の使い方だと信じて疑わない人が一定数いるが、それは新幹線の車窓から街並みを凝視するようなもので、どれほど記憶に定着し、感情を揺さぶられているのか疑わしいものだ。そういう生き急ぐ人と話していて楽しいことは少ない。まぁこの点はお互い様だな。そういう人からすれば私の話なんぞとろくさくて聞いていられないだろう。そんなことをブツブツと書いていたら博多につきましたよ、と。(仕事しろ)