un deux droit

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【書評】ダニエル・カーネマン『NOISE(上・下)』



ファスト&スローの著者、待望の新作。
ファスト&スローでは「直感」のいい加減さ、当てにならなさに焦点を当てた。それなのになぜ直感の判断に人間は依存するのか、その進化の過程や直感の効用、直感と黙考を使い分け、時々に応じてスイッチを切り替える思考習慣の大切さを説いた。難解な記述で執拗な分析が多いものの、それを上回る刺激のある本だった。

今回もまたしても、意思決定における「盲点」に着目した作品だ。

「バイアス」という言葉はよく耳にするようになった。それは人が物事を判断し、評価する際の一定の偏りのことだ。日本語で簡単に言えば「偏見」のことを指す。自分のバイアスに気づき、フラットな意思決定を心がけましょう。ここまでは、実際の現状はともあれ、現代社会における建前上の原則にはなってきている。
しかし、カーネマンはバイアスの除去だけでは不十分であると説く。バイアスと同等の悪影響がありながら、その存在が認識すら十分にされておらず、当然問題視もされていない代物、それが「ノイズ」である。この本では「ノイズ」とは何かということを懇切丁寧に炙り出し、その問題の大きさと対処法について、これまた執拗なほどに紙数を割いている。

バイアスを日本語で言うと「偏見」ならば、ノイズは「分散」だ。バイアスは「任意の人物が特定の物事に対して下す判断・評価」の「一定した」偏りを指す。中心からずれているが、ずれ方は安定している。対してノイズは「任意の人物(あるいは集団)が特定の物事に対して下す判断・評価」の「バラつき」の度合いを指す。
例えば裁判官が一つの犯罪に対して下す量刑にどれほどばらつきがあるのか、という問題や、同じ裁判官であっても同一ケースの犯罪に対して、別の日にもう一度判断をさせると全く違う量刑を下したり、という個人内部でのバラつきなどを紹介している。前者は個別に見ていけばバイアスの一種だが、バイアスが存在するかどうかは、他の人が同じ事例でどのような判定をするか、という統計を取って、その差を見るまで明らかにならないという厄介さがある。事象単体だけ見てもバイアスだとわからないバイアスが「ノイズ」である、とも言える。後者についても同様で、一連の意思決定のブレは事後的に集計を取ってからしかその存在を発見することができない。バイアスはアンテナさえしっかり働かせていれば、出現したその場でホイッスルを鳴らせる(『それってセクハラですよ』)。ノイズはノイズの被害者がある程度出現してからでないと改善できないという弊害がある。被害者本人もノイズの被害(不当に重たい量刑に甘んじていた、採用で不利に扱われていた、この上司でさえなければ昇格できていた...etc)を受けているという実感は湧きにくい。なので未然にノイズを極力除去するシステムを意思決定の中に組み込むことをカーネマンは奨励している。
この「ノイズを極力除去するシステム」というのがこれまた人間の直感に反した違和感を覚えるやり方で、「強烈な抵抗を受けてなかなか導入されない」あるいは「導入されても撤廃されてしまう」という憂き目にあいやすい、というのが下巻の後半に描かれる。


正直な感想として、ファスト&スロー程流行らないだろうな、という印象。極めて集団的な問題解決策しか取りようがなく、その価値を理解し、自分好みの意思決定を一旦諦めてもらう、という苦痛を感受しなければならない。それは専門家であるという自負が強ければ強いほど難しい。そしてノイズを除去するシステムに則って意思決定したところで本当にノイズが除去できたのかもまた事後的に統計的に検証するしかなく、効果の実感がしにくい。判断の性質によっては、効果の証明が永遠に不可能なタイプの事象もある。起きなかったことを「本来は起きていたはずのこと」であると証明することは誰にもできないからだ。

少なくとも、当社の経営判断や採用や人事考課はどれもバイアスまみれでノイズだらけであることだけはよくわかった。ただその除去の困難さも同時に理解した。関与するプレイヤー全員が相当程度、抽象的な思考体力を持ち合わせていないとノイズの除去は実現しない。その意味において実践的ではないが、単に自分を慰めるだけの思考実験として面白い一冊。