un deux droit

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働く必要はある

仕事の合間にブログを漁ってたら、興味のあるテーマを掘り当てた。

usagi-company-lab.hatenablog.com


誰しもが働ける環境を、社会として設計する必要はないのではないか、というベーシックインカム論者がよく言っている議論。働くだけ生産効率が落ちて有害、年金受給者など安価で構わない労働力が増えると賃金が下方硬直化するから害。だから能力のない人は除外して有能な人材だけできれいに回そう、という話。この話が一番有害なんだけど多分本人たちはわかってやっている。労働組合の親玉が真っ向から立ち向かわず「アグリーできる部分もある」とか言ってんの頭おかしいんじゃないかと思う。

主催者の二人はおそらく、ステータスの高いキャラクターと低いキャラクターを始終入れ替えて、最適なパーティーを作って魔物と戦うゲームのやり過ぎだと思う。ゲームではスタメン落ちしたキャラクターに感情はなく、一抹のデータとして忘却されても何ら支障はないが、現実世界はそうは行かない。「社会の役に立たなくてもいいじゃないか、楽しく遊んで暮らせるお金はもらえるんだから俺たちの邪魔はせずただの消費者として一生を過ごしてくれ」といくら口酸っぱく言い聞かせても、人間が納得するわけがない。一見、自由に放牧されているように見えても、それは檻のない監獄だ。あるいは鉄鎖で縛られていない奴隷。ごく少数の支配者の手のひらの上で泳がされているだけ。実質的に現実はそうなっているじゃないかという人もいるだろうけど、それを「公式の制度」にしてはならない。たとえ虚構であっても、自分の手足で自分の生を全うしているのだ、という尊厳を奪ってはいけない。その尊厳を「単なる思い込み」だという詭弁に乗ってはいけない。

あえて議論に乗るとすれば極度に最適化、均質化された集団は変化にとことん弱い。卑近な例で言えば、オール電化住宅は普段便利だが、停電一つですべてのインフラが利用不可になる。大阪の医療がコロナ禍で一時崩壊したのも、「平常時」に最適化して、万が一の際の病床の余白を維持するコストを嫌ったからだ。社会は効率的でなくてはならないといつ決まったのか。社会は維持することが最優先で、維持を天秤にかけて効率を取るのは頭が悪いと思う。

自分の社会への関与が、どれほど誰かにとっての「非効率」であっても挫けてはいけない。もっと安くても働けますよという人が悪いのではなく、その人をその値段で雇う経営者が悪いのだ。あるいはそれを許す社会の仕組み。だれか具体的な隣の人のせいのようにして、社会構造の問題を有耶無耶にしようとする姑息な手段にうかうかと乗ってはいけない。

「それほど頭がいいんだったら頭の良くない人も正規メンバーとして誇りを保てる社会を思いついてみたらどうですか?」
「それほどは頭良くないんですかね?それとも結局そういう人を正規メンバーとして見たくないというだけの単に性格悪い人間なんですかね」
「あなたこそ選民思想という幼稚な思い込みに囚われてますよ」

労働組合の親玉ならこれくらいの啖呵は切ってくれよ。