un deux droit

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芸術家にしか見えていない世界

昨日の昼間、ドライブしていると、助手席に座っていた妻が
「あ、ハリアーの新車だ。初めて見た」
とつぶやいた。
なんのこっちゃと思ったが、聞くと最近エンブレムが変わったらしく、そのせいでぱっと見うちの車と大差なくなった、とのこと。ここまで聞いてもちんぷんかんぷんだったので、適当に相槌を打っておいた。

妻はとにかく車に詳しい。国内外問わず街で見かける車はほぼ100%車種まで言い当てられる(私には確かめる知識がないのだが)。私はエンブレムすらもほとんど知識ゼロで、ベンツと三菱の違いもわからないくらいのスカポンタンだったのだが、妻に鍛えられて最近ではようやくプジョーを見てジャガーと答えるのを躊躇うくらいまでは成長した。
妻は幸いそういった高級車を所有したい欲はなく、ただ眺めるだけで満足らしい。「絵画鑑賞が趣味だからといって、実際に買っちゃう人はほとんどいないでしょ」と言われてなるほどなと思った。妻は美大出身だ。しかし、あまり絵画に興味なくて不思議だなと思っていたのだが、美術=絵画という私の認識の方が根本的に間違っていたのだ。つまり彼女にとって車は美術品なのだ。
私は以前から、なぜクラシックとか絵画とか誰もが知るような名作はある一時代に集中してその後嘘のようにスパッと途絶えているのだろう、人間は芸術的には退化してるってことなのか?という疑問を持っていたのだが、芸術家が途絶えたのではなくて、芸術家の表現する対象が移行しただけだったのだ。ゴッホは当時キャンバスしかなかったから絵という手段で自分の芸術的才能を発揮しただけに過ぎない。
妻は絵を描いていないけれども歴とした芸術家だった。彼女が創作しているのは流線型を描くプロジェクトの進捗管理、欠品もダブりもない日用品のスペアの管理、生活が豊かになる家具・道具の絶え間ない更新、最も機能的になるような物の配置の永遠に終わらない微調整といった、目に見えない「作品」だった。私自身も随分改造されてきたなと思うので。おそらく私や子ども達も作品の一部なんだろうと思う。芸術家と同居するというのはある種のホラーだ。いつの間にか変わっていたコンセントの位置の使いやすさを味わいながら背筋に寒いものを感じている。