un deux droit

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自分がしてほしいことを他人にしてやる

身もふたもない話だし、安っぽい自己啓発みたいだけど、最近つくづくそう思う。


褒められたい、認められたい、好かれたい。

そんなことが始終頭を渦巻いている最近の私だが、そんなことで頭がいっぱいな野郎を褒めて認めて好いてくれる奴はいない。

なぜなら、私以外の他の誰もが褒められたくて認められたくて好かれたい気持ちでいっぱいだからだ。私が気持ち悪いのもあるが、それだけが問題ではない、ということ。

つまり、現代は圧倒的に褒める人認めてくれる人好いてくれる人不足なのだ。

ちょっと考えればわかるけど、自分を褒めてくれる人認めてくれる人好いてくれる人のことを、人は好きになるし存在を認めるし人格を褒める。その人の価値を否定したり低く見積もれば、その人の自分に対しての評価の価値自体も自ら下げることになる。なので、実際にその自分を高く買ってくれる人の実態はどうあれ、自分が得た快楽の価値を高めようと無意識にするあまり、相手の価値自体も高めに設定するのだ。

ということはだ。自分が褒められ認められ好かれたくてしょうがない人は、先に自分から周囲の人を手当たり次第に、褒めて認めて好いてやればいいことになる。そうすればその行為を受け取った人の大半はその行為を持ち逃げすることなく、そっくりそのままか倍返しで自分にくれる。

それはその人が自分がもらった好意の価値を高めたい利己的な行為に他ならないのであるが、それでも自分が欲しいものは一周遅れで手に入るのだ。

さらに良いことは、周囲の人の価値を認める人は、キモさが緩和されることだ。

褒め認め好かれたい人は自分しか見えてない。自分がどう見られているかばかり気にしてうろついている。この状態はどうにもキモい。

他人を褒め認め好くことは他人に視点を集中することに他ならず、結果的に自分がどう見られているか気にする視点を同時に持てなくなる。そしてキモくなくなる。こういう理屈だ。

人に何の脈絡もなく好意を寄せることに抵抗感がある人もいるだろう。しかしその好意が論理的である必要はない。あくまで感情的に、主観的に、無条件で好感を持っている、と伝えるだけでいい。どうせその他人も対して因果関係なんか気にしちゃいない。

ちなみにこのやり口は嫌いな人、憎い人にも有効だ。自分の相手を嫌い憎む気持ちと、実際の感情表現が全く整合してなくて良い。その論理破綻を自らに許せばどんな相手にも有効だ。例えば暴力的な人に対しても使えるがその際はおびえてやってはいけない。相手はその怯えを敏感に察知し、おべっかやゴマスリだと思うだろう。だからやる場合はもっと一般の人でやり慣れてからの方がいい。

最後に、人を褒めて認めて好くことは、その行為自体が意外と心地よい。このことを知らない人は案外多い。褒めて認めて好く行為に酔いしれるような作用が働くのだ。通りすがりの街ゆく人に手当たり次第声をかけていたらさすがに危ない人と思われて通報されるだけだが、コンビニのレジ打ちのおばちゃんくらいの薄い関係性からならやっても問題ない。笑顔で目をしっかり合わせて感謝の気持ちを胸にたたえて「ありがとうございます」と言ってみたらいい。相手の反応などはどうでもいい。おそらく何の反応もない。しかし心は気持ち良いはずだ。

さぁみんなで今日からお互いを褒めて認めて好き合う素敵な日本を共に作ろうじゃありませんか。(安倍首相風)