un deux droit

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他人と比較することの無意味さ

今日は珍しく同期と仕事をした。

かたや平社員、向こうは取締役様である。

中小企業らしく、実力主義をむき出しに反映させた人事処遇を繰り返していたら、いつのまにか雇う側と雇われる側になっていた。

 

公平を期すために背景を説明すると、同期の彼は入社以来ずっと部署1つ分の売り上げを1人で出し続けるチート君だ。控えめに言って全社で2番目の社員の倍は売り上げてくる。一度部署を持ったが誰もついていけず辞める人が続出したので、以来、独立友軍として今日も1人荒稼ぎを続けている。

そんな劇物と今日は同行営業をしてきたのだ。

 

ほんの数年前ならこんな惨めな仕打ちはまっぴらごめんだった。自分が担当する顧客に、自分とさして年齢の違わない、それでいて肩書きに随分差の開いた人間を連れてくるなんて、私は無能ですと公言して回るようなものじゃないか。

しかし今の自分の心境は明鏡止水。何の感情的な屈折もなくこの現状を受け入れてしまっている。

自分の実力に諦めがついたのか?最低限のプライドすら捨てたのか?不感症になった自分の内心にしつこく問い続けると、何となく答え名たものが見つかった。

おそらく幸福の閾値が極限まで下がったのだ。

最低限の余暇どころか三大欲求まで容赦なく制約され、ちょっとでも家事や会話をとちったら容赦ない鉄拳制裁をくらう緊張感にさらされ続けて生きていると、1日の終わりに今日は何も波乱がなかったこと自体が涙が出るほどありがたくなる。

子ども2人は今日も風邪引くこともなく元気に登園してくれた。おかげで誰から後ろ指さされることもなく、担当する職務を全うすることができたのだ。

日常がつつがなく始まり、つつがなく終わる。これ以上今の自分が日々に求めることがあろうか。これが足るを知るということなのかもしれない。

底無しに欲求を掻き立てる騒々しい現代社会において、マイナスでさえなければ幸せに感じられる境地に至った自分の人生は絶対的にハッピーだ。なぜならば他者を必要としないから。他人と比べる必要もなければ、他人から賞賛や評価される必要もない。いわば幸福を自家生殖しているのだから脳内麻薬と同じ。人生は楽勝である。