un deux droit

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娘よ、君は私のモノマネ芸人なのか?

相変わらず長女(3歳)との関係はこじれている。


素行がだらしない上に、それを矯正する躾がうまく機能しないのだ。

困り果てながらも頭を悩ませあの手この手で改善を試みている。


以前から、子育てはマネージャー養成研修としてうってつけだと思っている。

子育てを会社に見立てれば、言わば出来の悪い困り者の部下を、左遷させることも解雇することもできず、かといって自分が退職することもできない環境で、必ず成果を出すことを求められているようなものだからだ。

嫌だからといってお互い距離を置くことができないならば、苦痛でも歩み寄り、譲歩できるところを交渉して、粘り強く対話を重ねてパフォーマンスを改善していくほかない。その試行錯誤の中絞り出した自分なりの必勝パターンは、大人との関係にも準用できる。

(余談だが、『不快でも関係を解消できない強制性』と、『不快を解消する手段の途方も無い地道さ』の板挟みが子育ての宿命であり、その板挟みに耐えきれず、不快さを解消する手段として『虐待』というショートカットを選んでしまう親が一定数存在するのは、共感はしないが理解はできる。)


そして子供が3歳を過ぎた今、子育てはマネージャー養成に加え、私自身を育成している上司の立場を疑似体験できることがわかった。

というのも、このくらいの年齢になると、子供は憎たらしいほど親の素行や言動、思考回路をトレースしてくるのだ。

具体的には、鼻くそをほじる、ごはんを掻きこむ、だらしない姿勢など日常の所作から、怒られた時の生意気な口の利き方、失敗した時の隠蔽工作に至るまでよくもまぁこれほど私のことを観察しているなと感心するほど自分の劣化バージョンのような立ち振る舞いを演じてくれる。

長女の姿は脚色のない私そのものを忠実に映し出す鏡であり、それをたしなめる私は、私の上司の立場そのものだ。

私の上司は私に負けず劣らずポンコツで、まともな指導を受けたことは一度もなく、それでいて私の手柄をこっそり掠め取る矮小さがどうにも醜く、正直言って憎悪の感情しかないが、それでも一片の同情の余地はあるなと思えたこと。それが今回の育休の数少ない収穫かもしれない。