un deux droit

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養子という選択肢

「私、不妊治療始めたんです。」

久々に再開した友人とのランチで、のっけから先制パンチ。
まぁよくあることだよね、と平然とした顔で受け止めたつもりだが動揺が隠せたか定かではない。
私はその友人が妊娠し、中絶した過去を知っている。それが今度は不妊治療とは…
友人曰く、子供はいつか欲しいこと、でも別に血の繋がりにはこだわっておらず養子でもいいこと。結婚してしばらく経ったのに孫の顔を見せに来ないことに母がやきもきしていること。そしてその厳格な母では養子など許してもらえそうにないこと。そんな話をつらつらと聞いた。
「目黒の虐待があったじゃないですか、あのニュースほんと辛くて。親から望まれない子供と子供がいなくて子供の欲しい夫婦が組み合わさればあんな事件起きない。」
「血の繋がりってなんですか?夫だって血の繋がりがない他人なんだから、要は愛する気持ちの問題だけでしょう。」
「人生で色々やりたいことが多すぎて、それらは全て保留して妊娠している時間を確保するのが難しい。」
私は、夫婦が納得する形でありさえすれば実子だろうが養子だろうが構わないと思うよ、親の期待や周囲の目線は気にしなくていい、というありきたりな言葉だけを添えて話題を変えた。
というのも、まさに私は血の繋がった子供を授かることで、この問題に結論を出すのを子供に丸投げしてしまったからだ。
いつから続いているのか想像もつかない血縁のバトン。もちろん大した家柄でもないし残すべき遺伝子だとも思えないが、遺伝子の乗り物たる生命体としての役目を果たさず、自分の代で終わらせるアンカーになる勇気がなかった。
生命に意味などない。遺伝子に意志などない。10代前の先祖が私のことを案じて何かを託してくれたわけでもなければ、私が死んだあと私の孫やひ孫にあたる存在がいなかったとしてそのことを嘆き悲しむ私の魂があるわけでもない。そんなことは頭でわかっているのだが、いざ子供が生まれた時は、感動や喜びよりも、自分がアンカーにならなかった安堵の気持ちだったということは正直に言っておこう。
この不可解な感情こそが、自分が動物である所以なんだろうと思うのだが、それ故に養子という選択肢を思いつける友人を怖いと思う。子供がどうしてもできなくて、でもどうしても子供が欲しくてやむなく、という人なら共感できるのだが。同様に、自由で快適な生活を維持するために子供がいらないと平然と言えてしまう人も、怖い。嫌悪感ではなく恐れ。どうしてそう易々と動物であることを超克できるのだろうか。人間は確実にロボットへと近づいている。