un deux droit

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言論封鎖を覆せ

私が編集長をしている広報誌にて、私の書いた原稿に社長からNGが出た。内容が気に食わないらしい。社長の価値観に沿うものしか発行できないのだとしたら、編集長とは何の責任と権限を保有しているのだろうか。自分では書けないくせに一丁前に人の書いたものに文句だけつけ、発行の可否判断権限だけは握り続ける。なんて専横的なのだろう。社長の意に沿うものを、社長の代わりに書くのならゴーストライターじゃないか。そんなものを求められているなら私はもうこの仕事は続けられないなと思った。

家では相変わらず何か自分の考えめいたものを発話すると、妻には伝わらないし、不愉快だと詰られる。もっと分かりやすい言い方を、とか、構成が悪いとか、いろいろ言われているが、結局のところ私は妻の終わらない独り言に対する相槌マシーンの役割しか期待されていないのだ。マシーンに徹している限り妻はご機嫌だ。

自分の社会はそれくらいなので、社会全体からお前はお前の考えを持つな、言うな、と言われている気持ちになる。誰からも自分の考えを求められていないような気持ちになるのはとてもしんどい。

今の自分の実力では、読む者の心を震わせ、神聖にして侵すべからずと容易に手を加えようと思わない物を書けていないし、一言も聞き漏らすまいと思わせるだけの事を言えていないのだろう。さらなる研鑽を重ねたい。

人生に2倍速ボタンを

宝くじを買いそびれてしまった。

今までは「もし億の金が手に入ったら何をしようか」と妄想するのが楽しかったのだが、最近はそれも楽しくなくなった。お金があったとて人生が楽しくなる要素は見当たらない。

自分の人生が好転するには、まずは子どもが巣立つこと。私の人生の苦痛はもっぱら妻から生じていて、妻との暮らしをどうするかということを考えるときは子どもの存在が足枷になっている。お金の力で時間を早送りできるならそうしたいくらいだ。

妻は仕事を辞めた。同僚とそりが合わなかった。もう会社員勤めはやめて個人事業主として仕事をするようだ。ここ3ヶ月ほど、会社を辞めようかどうしようか、新しい仕事はどうしようか、という妻の禅問答を延々と聞き続けた。妻の話のすべてに興味がないが、それに興味を持っているように相槌を打ち続けなければもっと面倒な口論になる。

自分の選択の一々が、「どっちのほうがより苦痛が小さいか」で決まってゆく。そのことの絶望に打ちひしがれている。

妻の攻略本

①妻は私に興味がない。だから私が考えていること、私の興味関心の向くところ、私の価値観を聞かされることは全て不快である。これらに該当する内容の発話をしてはならない。

②妻は「対話が足りない、対話を望んでいる」と言う。しかし、①により、話せるテーマは必然、妻の関心事に限られる。具体的には、妻自身の人生、子どもの将来、家のことなど。「私が何を考えているか」ではなく、「私が妻に対してどう思っているか」だけが聞きたいのだ。これは「対話」という一般的な意味だけを想起したときにトラップとなる。ゆめゆめ気をつけなければならない。

③妻は、私の自己開示が足りないと言う。しかし①により、私が本当に何を考えているかではなく、私が生活に満足していること、それが妻によりもたらされていることに感謝していること、これだけを反復して耳にしたいという意味であることを忘れてはならない。私に許されているのは肯定と感謝だけである。

④妻は、私の意見はないのか、全ての意思決定が妻任せでないかと言う。しかし①により、本当に私の望んでいることを聞きたい訳では無い。これは、妻の考えが本当にいいと思っている事の賛同の意が不足しているという意味である。どっちでもいい、どうでもいいというふうに気持ちが入っていないことがバレている。気合を入れ直して妻と向き合わなければならない。

落ち度

今日は長女の習い事の日。いつものように夕飯の準備をしていると、普段送迎を担当している妻が一向に自室から出てこない。「送りいけそう?」と様子を伺いに行くと、「あー!!」と絶叫。予定を失念していたらしい。「それで、行けるのかな」と再度聞くと、「行けない」との返事。

私はそこで「ごめん、代わってくれる?」くらいの打診が続くと想定し、「大丈夫だよ、行ってくるね」と言う口を作って構えていた。すると妻からは「なんでもっと早く声かけてくれないの、こんなギリギリに言われても行けるわけないじゃない、まだ化粧だってしてないのに…」とまくしたてられた。その剣幕に思わず「ごめん」と怯み、すごすごと退散して送迎を代行した。

娘を送迎する車中、「なんで俺が謝らされたんだろう」と釈然としない気持ちになる。合理的な判断で役割は分担されており、その遂行に責任を持つのは第一に担当する本人である。それを失念していたのならば迷惑を被る相手方に対し、第一声に「ごめん」の一言くらいあってもいいのではないか。私はもはやそんなものは期待していないので、「あー忘れてた、ちょっとかわりに行ってきてよ」くらいの応答でも一向に構わないのだが、妻はそれを上回って私の落ち度を責めてきた。

「妻に何か役割を任せること」の対に、「妻が自分の担当する役割を忘れてその準備もしていない可能性を考慮してそれでも役割の遂行に間に合うように逆算して適切な時間に声かけをする」という役割が付属してくるというのならば、私はもう妻にその役割を任せずに、自分でやることを選ぶ。

そもそも妻は、子どもの送迎についての負荷を軽視している。馬鹿でもできる単純労働だから、それをやったくらいで偉そうな顔をするな、というのが妻の元来からの主張だ。私はそれも甘受し、毎日就業時間に食い込む送迎業務について、仕事の調整をつけながら黙々とこなしている。そのうえで毎日夕飯の支度もしていて、年齢平均以上のフルタイム給料も維持している。それについて文句を言うつもりは一切ないが、妻に文句を言われる筋合いだけはないと思うんだ。ただただ虚しい。

腫物

長いお盆休みも、ようやく終りが見えてきた。相変わらず妻は情緒不安定で、長い時間同じ空間にいるとちょっとのコミュニケーションの齟齬で破滅的な局面まで口論に発展させてしまう。ほんの少しの異論、ほんの少しの聞き間違い、ほんの少しの決めつけ、ほんの少しの失言。彼女の言う事を総合すると、私に「私見の表明」というのを許さない、いうことだ。そのためには「主観」というものを全て棄却して生活をしなければならない。平たく言うと人間であることをやめろ、ということだ。それでいて、死ぬことも関係を解消することも許さないとも言う。いかに生理前とはいえ、思ってもいないことは言えないので、それが包み隠さぬ彼女の本心ということだろう。

私も私で、争い事が億劫なので、出来るだけ意識を殺して霞のように息をしているのだが、そうなると必然、妻に希望を言わない、不満を持たない、指摘をしない、といった感じで、妻のやることなすことを全肯定することになる。妻の希望する、完璧で無菌状態の世界の実現に協力をしているつもりなのだが、妻はそれはそれで「私に関心がないのか、腫れ物みたいで嫌だ」と不平を言う。おっしゃる通り、やることなすこと自分の思い通りにならないと気が済まないあなたに消耗して、敬遠し、心が挫けてます。人間、そんなに強くないです。

独裁

昨日は子ども達を祖母宅に預け、ひたすら家の掃除。冷蔵庫上の拭き掃除、レンジフード上の掃除、風呂換気扇の掃除、トイレ掃除などを黙々と続けた。その合間に食事の準備。

妻は生理が近いとか夏バテとか転職先が見つからないとかで特に何も動いていない。もはや公平性とか対等性とかに何も感じなくなっている。妻の存在を労働力としてカウントしていない。家庭が抱えているタスクを勘定して、自分が解消できることに集中するだけだ。問題が解消すればよいのであって、誰がどれだけ貢献したかなんて些細なことではないか。家計や在庫の管理をしていて大変だと妻は言うけど、実働で汗をかき、時間を多く使っている方が偉いのだ。妻には生暖かい目でいつも大変な仕事をありがとうと言っておく。どうせ妻は、私の貢献は家事代行サービスに手配すれば抹消できる、代替可能なものでしかない=だから価値が低い=感謝しなくてもいい、という妻にとって都合の良い理論から離れることはない。そんな妻と心通わすことはない。

夕飯後、ブリタの水がぬるいとクレームを受けた。私からすればさっき料理で使ってしまってぬるい水道の水を足したばかりだからそりゃそうだろうと思い、そのことを告げた。そしたら、出しっぱなしだったからぬるいと思ったんだけど何その口ごたえ、と妻が怒りだした。これと口ごたえかよ、と自分も憤った。水がぬるいくらいで、ちょっと出しっぱなしだったくらいで、少し自分の思い通りにならなかったくらいで即他人を責める神経が理解できない。
「出しっぱなしだったのはついさっき調理後の味調整で使ったときにバタバタしていてうっかり忘れたけれど、それがぬるい原因ではない。いずれにせよ出しっぱなしだったことでいらぬ誤解を招いたのは申し訳ない。」と機械的に事実を伝えた。それが可愛くない言い方だったのは自覚している。でもそれが生意気だということで2時間以上口論となった。妻は妻の主張がどれだけ事実と反していても妻にとっては真実100%なので一切の反論をせず受容せよ。真偽を争うなということを昔から言っている。私からできるのは真偽の裁判が終わったあと、つまり偽が真と捻じ曲げられた不快に耐えたあと、事実の真偽とは別に感情としてさっきのやり取りで傷ついた、ということだけなのだそうだ。それなら妻の自尊心は守られる。妻が不当なクレームをゴリ押ししてこなければ私が傷つくこともないというのに。殴りたいと私が思ったのだから避けるな。大人しく殴られ出さえくれれば私はスッキリするのだから、その後に痛いと泣き喚くのにはすまんかったなと謝ってやる。それが家族だ。相手に違う事実があるかもしれないと慮って思ったことを言わないのは不健全だ。ということらしいです。私はそんな家族いらない。

妻の「事実と感情切り分け論」について譲歩したので一旦話は終結。事実は常に妻のもの。私は事実の真偽とは関係のない感情の訴えしか許されない。冤罪放題の理屈である。とても嫌な気持ちになって、深夜のランニングに駆け出す。久々に10km走ってみたら1時間切れた。怒りの力は恐ろしい。

空元気

発熱。37.6℃。連休最終日は不穏な幕開け。

取り急ぎカロナールを飲み家事スタート。掃除機をかけトイレを洗い、お昼ご飯を作り皿洗いまでしていよいよ気分が悪くなったのでまた寝込む。

15時位に目が覚め、少し復調してきたので妻と子どもの買い物について行く。

ショッピングモールの空調ダメージをモロに喰らいながら、モール中を歩き回り、抱っこに応じ、妻との雑談に付き合いながらミッションをやり抜いた。

夕飯はフードコートで済ませ、帰宅してからは風呂掃除、風呂付き添い、ドライヤー、寝かしつけと、いつもと何ら変わりない日常を送った。熱は37.8℃。まるで安静にしなかった割には健闘している結果となった。またカロナールを飲む。

どうして妻に対して「しんどい」と素直に甘えられないのか、「代わりにこれをやって」と頼れないのか、無理をして苦痛に耐えている間、ずっと自嘲していた。でもその一言がどうしても言えない。言ったら必ず妻は嫌な顔をし、「しかたねーな」と悪態をつく。そのさまを見るのが心の底から嫌なのだ。私への心配より、自分の思い通りに物事が進まないことへのフラストレーションの方を先に発信する。私のことを都合の良いツールとしか認識していないことは分かりきっていたけど、わざわざ露骨にそのことを言語化してはほしくないのだ。

このやり取りが私を傷つけていることは3日ほど前に妻に説明をした。 そうすると妻に「家族はどうせ協力するって決まってるんだから悪態くらいつかせてほしい。協力に加えて心配までされたいってどれだけ甘えてんだ」と一蹴された。

妻と暮らす限り「愛されている」という感覚は二度と味わえない。その絶望感が私を自棄にしているのだと思う。くたばるならさっさとくたばっちまえ、自分。

空蝉

今回も離婚に失敗してしまった。もはや、妻に離婚を決心させることは無理なように思う。2人の関係を分つのは死別の時のみ。その重苦しく圧倒的な現実に押し潰されて、気力が湧かずにいる。

昨日のトラブルは、もっぱら妻が担当している家事を、私が迂闊に手を出してしまったことに端を発する。家事をしなくてトラブルになったのではなく、家事をしてトラブルになったのだ。やるタイミング、やり方について妻が並々ならぬ思い入れを持っていたようで、それを乱されたこと。加えて、妻の担当家事に私が手を出すことで、間接的に家事の遅延を詰られているような気持ちにもなったことで、なんで勝手に〇〇したん?と激昂した。私としては、私の行為のせいで妻の思い通りにならなかった事態が発生したのかもしれないけど、妻の思惑は私が事前に予見できないことだし、その舵に手を出すこと自体は私に禁じられている事でもないのだから、いきなりキレるのは筋違いじゃない?と突っぱねた。

この件に限らず、私が常々伝えているのは、自分の都合で相手の行動を変えさせたい場合は、申し訳ないけれどこれからの事情で、とお願いする姿勢が必要だということだ。変えないとは言っていない。しかし妻はそれがへりくだる姿勢であり、なぜ対等な関係であるはずの夫婦にそんな立場の高低をつけなければならないのだと拒む。他人にお願いすると、即座に立場が下がる気持ちになる誇大妄想が邪魔くさい。逆になぜ要望を突きつける時に、上から頭ごなしに、「なぜ〇〇をしてくれないのか」と責める口調でしか伝えられないのかがわからない。そのやり口は対等なのか?私は妻の誇大妄想のせいで、妻の「お願い」を聞くたびに、事前に予見できるはずもないことを予見できたはずだ、すべきだと無闇に詰られ、いちいち嫌な思いをしなければならなくなる。妻の希望のカスタマイズ通りに対応するし、これまでもしてきたんだから、その詰問口調やめない?と言っているだけ。でも妻は「言い方次第でやりたくなくなるというのは、本当はそれ自体をやりたくないからだ」と言って、その言い方に拘る。

そもそも、その問題となった家事については以前、「なぜ主担当でないからといって一切手を出さないの、そんな会社の業務みたいに完全に線を引いて、見て見ぬ振りをするなんて冷淡が過ぎる」と詰られたこともある。その点に触れると、「主担当は私なのだから、その許可なく手を出してはいけない。あんたができるのは、ただ心配しているよ、やろうか?という声がけだけだ」とのこと。口を出して、手を出すフリもして、でも決して触れない。空手の型が何かだろうか。いずれにしても、そんな一挙手一投足、妻の気にいる振る舞いを完徹しなければならない筋合いはない。私はプログラミングを施したペッパー君ではない。自分の思考、自分の感情がある。それそのものを拒むならば私は不要だ。自分のクローンでも作れ。そう吐き捨てた。そしたら妻はまた家のものを投げ散らかして「出ていけ」と金切り声を上げ続けた。

で、その後どっちが出ていくか押し問答ののち、なぜか妻が出ていくと言ってスーツケースに荷物を詰めて飛び出したが、妻は30分ほどして帰ってきてさめざめと泣き始めた。

挙句、2人の関係がちょっとうまくいかないからって簡単に家庭を壊そうとするなんて無責任だ、子どもを悲しませたくないと言い出す。いや、だからそれを言うならあなたこそ、完全に私を思い通りにコントロールすることを妥協しろよ。家庭の維持存続は妥協と折衷案と歩み寄りの連続だ。時には自分が最も譲れないものですら譲らなきゃならない。でそれを譲らないと頑なだからもうおしまいですねという話になったのに、何を交渉しているのだと呆れる。

結論としては、私はその家事に一切触れないということ、でも遅滞が生じている場合は「大丈夫?」と声かけだけはすることが取り決めとして交わされた。妻が精神不安定になっている事情などを吐露し、言い過ぎの面があったと折れたので、その点に理解を示して自分も態度が頑なだったと詫び、言い方の件は水に流した。泣かれると自分も途端に弱くなり、もうどうでも良くなってしまう。そのせいで10年以上もずるずると関係を繋いできてしまった。それにしても、8時間議論して、発狂されて、殴られて、家出騒動の挙句にようやく引き出せる譲歩。妻は何でそんなに男に対して譲ることを屈辱に感じるのか、昔虐待を受けたとか性被害にあったとかがないと説明がつかないくらい、ポーズであっても下手に出ることができない。極度の男性不信を根源に感じる。

妻はシングルになっても問題ない収入があるのに、何が不安なんだろう。そんなに男を信じられないならば、一緒の空間にいることが苦痛だろうに。私は子どものために養育費とローンを欠かさず払う人間だよ。妻が子育てから解放されたいなら私が育てるよ。全てが妻にとって都合の良い環境整備に貢献する欲のなさと律儀さを私は持っているのに、それを信じて貰えないのは悲しいことだ。一緒に暮らしたいなら愛してほしいし、信じてほしい。愛せなくて信じられないなら、ATMに徹するから解放してほしい。

パートナーシップ向上の秘訣と皮肉

妻から「最近なんだか頼もしい」という評価をもらった。悩みや愚痴を妻がこぼしているときに、ただ相槌を打つだけでなく、率直に意見を言ったり、励ましたり、といったアプローチがあり、「私には味方がいる」と安心感を覚え、問題に対して前向きに立ち向かえるのだそうだ。

「やっぱ、管理職になってから心境の変化があったんじゃない?他者から期待をかけられ、立場や責任を与えられるとしゃんとなれる、っていう人だって別に悪くないと思うよ。」妻は機嫌よくそう続けた。そういうものなのかもな、と私はそこで適当な相槌を打って言葉を濁した。

私自身は管理職の位を与えられる前の3月と、与えられた後の4月で特に心境の変化はない。相変わらず就業時間中にサボりまくって、読書や漫喫や動画視聴やランニングやカラオケなどを楽しみながら、業務が破滅的に滞らないギリギリのペースで仕事をこなしている。私の就労コンセプトは、今も昔も変わらず「いかに働かずに実質的時給を最大化するか」だけだ。

変わったことと言えば、

パートナー機能をパーツに分ける

5月、妻との生活が苦痛でしかなくなり、このままだと精神が壊れてしまう、という身の危険を感じていた。離婚届を持ち出すも妻に別れる気はなく、かといって自分に死ぬ勇気もない。八方塞りに思えて脳が爆発仕掛けた瞬間、自分が考えまいと頑丈に施錠していた部位の鍵が壊れた。もう徹底的に自分本位に生きよう、と。自分の幸福を最優先にして躊躇をしない。なんだ、自分の悩みはこんな簡単なことで解決するじゃないか。自分に課していた倫理観をぶっ飛ばすだけだったのだ。

私が最も満たされていなかった部分は、パートナーからの愛情だった。赤の他人がひとつ屋根の下で暮らし続けていくには、利害の一致だけではやっていけない。自分にとって負荷でしかなくても、相手の喜ぶ顔を見ることがそれを上回る幸せならば進んで自分を差し出せる。そうやって互いに互いを捧げあい、思いやりあって家庭というのは隙間なく組み上がっていくものだと思っていた。単なる利害関係だけでは、どちらも解決に気の進まない問題が発生したときに、どちらも取りに行かない。なぜならば、そこで自分が犠牲になることで相手を助けるという喜びに変換されないのだから。そうしてお互い取りこぼしたものが腐敗してゆく。そうしてより面倒になった問題に対してお前がやれよと不毛な押し付け合いになるのだ。そしてその部分は愛情ではなく良心を持っている私が全て拾うことになり、不公平感だけが増幅していた。

家庭内職業訓練所

時間が経つのが引くほど早い。前回のブログからはや1週間。このまま放置すると全く書かなくなりそうなので、書くことを目的にして書く。

前回の離婚騒動からほとぼりが冷めて、また変わらぬ日常を取り戻している。


妻はこんな話をした。

「私があなたに言っている苦言は、あなたの周囲の人間が5年後にあなたに対して不快と感じる要素だ。今は私しかそれを不快と訴える人はいないかもしれない。だからこそ、あなたは私の主張を不当と感じ憤るのだろう。けれどももし私の指摘する欠点を改善せずに5年経てば、その欠点があなたの周囲を不快にし始める。そして周囲の人間は他人なので、あなたに改善を訴えることはなく、あなたを遠ざけるだけだ。そうしてあなたは日常の人間関係が何となくうまくいかなくなり始め、その原因に気づける機会もないままどんどん悪循環に陥るだろう。そんな未来が嫌なら黙って私の言うことを聞いておけ。家族しかそんなことを指摘してくれる人はいないのだから」


要約すると、妻は5年後の未来から来た人間で、私を5年後でも通用する人間でいられるように先んじてアップデートを促し続けてくれる存在らしい。常に先々を読んで、まだ必要だとわからない段階でアップデートを始めておく。そのアップデートがちょうど必要になる頃には完了しているようにしておけば、常に時代に乗り遅れないで済む。アップデートが必要と感じるような事態に陥った時は、すでに手遅れで、もう周囲が私を見限り始める。そういう隙を与えないことが肝要である。こうして私は常に波に乗りつつ、現時点で自分が必要と感じていない改善を、納得感のないまま進めているという人生を歩むということのようだ。家庭というよりは職業訓練校に近い。生活は金銭的に安定するだろうが、心が満たされることはない。これ鎌幸せな人生と呼べる代物なのかは今の私には判断がつかない。

いつだって手元には離婚届を

連休最終日、私の我慢にも限界が来て子どもを置いて家を飛び出した。妻は私の背に向かって「都合が悪くなったらそうやって逃げるのか」と吐き捨てたが、構わず鍵をして対話を拒絶した。

怒りに任せて目的地も定めずに歩き、ここまでの顛末を振り返って自分はもうこれ以上我慢する必要がないのでは、と結論を出した。生活がどうなるのかなんてやってみないとわからないが、もう関係を解消したほうがいい。これ以上自分の人生を台無しにするわけには行かない。そんな思いを巡らせているうちに、足が自然と市役所の方に向いていた。

「離婚届の用紙をください」

まさか自分がこんな事を口にする日が来るとは。恥ずかしいやら情けないやらで、市役所の入口でしばらく躊躇していたが、かといって引き下がるのも地獄しかないと思い、意を決して窓口に向かい、努めて冷静に用紙の支給を依頼した。いざ口にしてしまうと自分でも思いの外堂々としていられて、なにか文句でもありますか、と平然とした心持ちだった。窓口の職員のほうがどちらかというと落ち着きを失い、ソワソワとしながら小声で書き方の説明をしてくれた。どうも、とお礼をいい、飄々と窓口を後にしてみて、なぜか白紙の用紙をもらっただけでかなり心が晴れ晴れとしたものになった。離婚してもお前には幸せな暮らしなど望めない、と妻からさんざん脅されてきた呪いが一気に解けたような気がした。俺が何を幸せと思うかは俺が決める。そういう割り切りがようやくできたのだ。

心のもやもやが晴れると、急に腹が減ってきた。朝からろくなものを食べていない。今後の妻との戦いに備えて気合を入れるために、ちょっと奮発してスープカレーを食べに行くことにした。夢中になって頬張っていると妻から電話が。しばらく無視していると、LINEで「話し合う気もないのか、じゃあこれでもう終わりだ」と脅してくる。妻はそうやって圧をかければ私がうろたえると思ったのだろう。しかしもうこちらは離婚届を入手するところまでやってきている。決裂上等だよ。そういう心持ちで「話し合いも何もこちらが言いたいことは全部言った。それを受けてどう考えるのかを示すのはあなたの仕事だ」と突き返した。その後、しばらくLINEでラリーを続けたが、私が普段よりも相当に冷たい物言いで妻の主張がいかにおかしいかを詰めていった。そして、もうこのやり取りと、関係を続けたくないとはっきり伝えた。

すると、妻からの書き込みはしばらく途絶えた。これで完全に決裂かな、と思っていたら、妻から返事が来た。そこには、妻がこれまでさんざんこだわってきた、口論の中身についての正当性の主張は書かれていなかった。代わりに、そもそもなぜ口論をしたくなってしまうのか、その点についての分析と改善策が提示された。

私としては口論をしたくなるようなストレス環境自体は改善すべきだということに異論はなく、そのためにできる改善策についても納得の行くものだったし、私にも大いに利点のある内容だったので、ここいらで手打ちにしようと思った。自分なりに反省すべきと思ったことは端的に伝え、詫びを入れて、逃走劇は終了を迎えた。所要時間にして8時間ほどの短い逃避行だった。

妻も妻で言いたいことは存分に言い捨てることができたようで、今のところ関係は安定している。

たとえまた関係がこじれたとて、私にはすでに入手した離婚届を引き出しに保管しておいてあり、次に納得のいかない因縁をつけられたら、即座に叩きつけることができる状態になっている。この事実は、私自身の心の余裕と安寧につながるなと実感している。

地獄からの逃走

連休最終日。毎日のように妻の小言、嫌味、言いがかりを聞き、そのたび衝突して、消耗して、もう向き合うことが嫌になって家を出てきた。ご飯の準備をしてきたがそれももはやどうでもいい。私がいない生活を楽しんで、私がいない生活を苦しめばいい。パートナーに気に食わないことがあるとはいえ、どこまで言っていいのか、その線引のわからないやつは孤独になるのだ。

妻は無責任だとなじるだろうが、そこまで人を追い詰めることについて妻は責任を感じるべきだ。何か気に食わないことがあるときに、すぐに他人を指弾するのではなく、自らの内にその状態を招いている原因を探るべきだ。

妻は妻からの忠告が私を成長させ、それによって私がいまの安定した暮らしを幸せを得たのだというシナリオを頑なに手放さないが、肝心の私がそれを幸せだと思っていない。言動や振る舞いや考え方を妻の好みにカスタマイズする日々はただの拷問で、しかも終わりがない。そのおかげで私がなにか得るものがあって、それをしなかったことで何かを失ったり得られるべきものが得られなかったとしてももはや構わない。私が何を幸せと感じるかを妻に決められる筋合いはない。私は「妻の言うことを聞いてきたから今の生活がある」という呪文を解き放つべき時が来たように思う。妻の言う言い方をしなで、仕事で失敗したり友を失ったり生活が崩壊しても、それがもともとの私の人生だったのだ。何が問題あろうか。

子どものことももはやどうでもいい。私が育てろと言われれば苦しみに耐える覚悟はあるし、お前がでて行けとなれば寂しさに耐える覚悟もある。養育費だって私の最低限度の暮らしが可能な範囲で払うつもりがある。もともと酒も飲まないしギャンブルだってしない。ゲームに課金しているのも妻との生活が辛くて逃避しているだけなのですぐに辞められる。ただその親権の駆引きで妻と対峙することだけがしたくない。勝手に決めてもらって構わない。その決断に従う。決定に関与しないなんて無責任と言われようがもはや私には響かない。私は無責任ではない。妻との関係が徹底的にこじれた結果、責任を取る選択肢が潰え、結果的に無責任のような態様になっただけだ。責任を取らせてくれる信頼関係があったらそもそもこんな事になっていない。

もし別れることができたなら、もうほかの誰かと恋仲になることはないなと思う。誰か他の人とお近づきになりたいのは妻から逃げたいからでしかなくて、妻から逃げおおせることができたならもはや誰も必要としない。

妻からのLINEには、夫のココが問題だとか、こういう思考ができない人の特徴、みたいなリンク先が次々と送られてくる。ブチ切れるでも、反省するでもなく、徹頭徹尾「指導」だ。対等な関係なんかではない。それが嫌なんだって言っていることがまるでわかっていない。

既読はつけない。

採点と配点

今朝も朝から痴話喧嘩。もううんざり。そんなに違和感が気になって仕方ないなら、俺を漂白剤にでも漬けて殺してくれ。

「そんなに気に入らないことが私に多いなら、そもそも私はあなたに全くフィットしてないんじゃないの。全然違う人間の型を無理やりに嵌められても入るわけないよ。その型に合いそうな人を探すところからやり直してくれ。」私はそう吐き捨てた。すると、「そもそも型は合っている。大筋で不満はない。だから結婚をしている」と返答が来た。話が噛み合わない。

妻からすると、私は酒を飲まない、タバコを吸わない、ギャンブルをしない、友達付き合いが少ない、家事をちゃんとやるなど、基本的な点はクリアしている存在である。それで100点。それは当然の前提だから、感謝する筋合いのものでもない。感謝するということは、その人に期待できないと思っていたことが叶ったときにするものだそうだ。その点を損じたら不満が出るのではなく離婚。契約違反だから。そういう世界観。
その上で、あと1点、2点と加算できるもんならできないかなと絶えず狙っているようだ。

私の受け止めとしては妻にとっての100点部分(すなわち当然の前提により評価は割愛)の部分が採点されていないように感じる。あるいは評価されていても、不当に配点が低いように感じる。体感では、赤点以下の評価。追い打ちをかけるように際限なくダメ出しを食らうため、赤点評価されているんじゃないかという体感はますます信憑性を帯びてくる。配点的には家事の満点が30点、妻の好むコミュニケーションの満点が70点のテストを受けている感じ。妻にとっては割愛でも、私にとっては無価値と言われているようにしか感じられない。

40代男性の平均年収を稼ぎながら、毎日の子どもの送り迎え、朝夕の食事、掃除機、トイレ掃除、皿洗い、キッチン掃除、洗面所掃除、ごみ捨て、風呂掃除を担当し、酒タバコギャンブルから無縁で、稼ぎの9割を家庭に上納(残りの1割は保険と昼食代に消える)し、趣味もなく、服は基本ユニクロで、太ってもハゲでも不潔でもなく、暴力的でない私は、もう少しありがたいと思ってもらってもいいと思うんだ。割愛はせずに。

権利と義務、自由と責任

今年度のひな祭りは大惨事で幕を閉じました。

きっかけは些細なこと。妻の小言が耳障りで、私反応が悪かったのだが、その態度を妻が許容できなかった。その許容できなかったことに私が憤慨した。以下無限ループにエスカレート。サラエボ事件よろしく、火種はどんな些細なことだっていいのだ。ドンパチやりたい、機会があればやり込めたいとあらかじめ互いに思っていて、あとは名目さえ整えばよかった。

妻の私に求める態度は、私が妻に対する愛情がある前提の行為ばかりだ。しかし妻への愛情はとうの昔に潰えている。ここで言う愛情とは、相手の至らないところも微笑ましく見えてしまったり、多少無茶なことを言われても応じてあげたくなるような感情のことだ。簡単に言えば、自分の利益にならないことを喜んでできる状態である。かつては私も妻にそういう感情を持ち合わせていた。しかし、二人目が生まれて以降、セックスどころか身体を見られることも拒み、一緒に寝ると落ち着かないと言われ、諍いで恐ろしい形相を何度も目の当たりにし、挙句の果てには頭をかち割られる、という経験をして、そういった感情は摩滅した。

一方、家庭を営む上での相手への尊敬や信頼はしっかりと持っていた。仕事で高い成果を残してくるし、家事も滞らない。お金もちょろまかさず破綻しない程度に公明正大に浪費をしている。生活の知恵や人生の指針などは私にないものばかりだ。そういう側面をもってして、婚姻関係を継続することは可能だと考えていた。感情は往来しないけど、互いに努力を重ねることはできる。そういう日々もそれなりに生きがいはある。それでいいじゃないか。だってあなた私のこと好きでもなんでもないじゃない。好きでもない人から愛されても嬉しくないでしょ?でも家庭を運営するパートナーとしては一定の信頼をしているんでしょ?もうそれで満足しようよ。そう割り切っていた。

でも妻はそこで割り切りができないみたいだ。愛したくないが愛されたい。でも愛してない人からされても嬉しくない。だから永久に満たされない。そんな絶望的な不満をぶちまけられる。まずはあなたが人を愛するところから全ては始まるし、愛せなくなったらもうその先は何も回転していかない。そこの達観ができないならやはり関係を解消して、あなたが愛せる男性で、愛してもらえてると嬉しく思える人と再婚をしてみてほしい。

そんなことを、後で話そうと思う。