今回も離婚に失敗してしまった。もはや、妻に離婚を決心させることは無理なように思う。2人の関係を分つのは死別の時のみ。その重苦しく圧倒的な現実に押し潰されて、気力が湧かずにいる。
昨日のトラブルは、もっぱら妻が担当している家事を、私が迂闊に手を出してしまったことに端を発する。家事をしなくてトラブルになったのではなく、家事をしてトラブルになったのだ。やるタイミング、やり方について妻が並々ならぬ思い入れを持っていたようで、それを乱されたこと。加えて、妻の担当家事に私が手を出すことで、間接的に家事の遅延を詰られているような気持ちにもなったことで、なんで勝手に〇〇したん?と激昂した。私としては、私の行為のせいで妻の思い通りにならなかった事態が発生したのかもしれないけど、妻の思惑は私が事前に予見できないことだし、その舵に手を出すこと自体は私に禁じられている事でもないのだから、いきなりキレるのは筋違いじゃない?と突っぱねた。
この件に限らず、私が常々伝えているのは、自分の都合で相手の行動を変えさせたい場合は、申し訳ないけれどこれからの事情で、とお願いする姿勢が必要だということだ。変えないとは言っていない。しかし妻はそれがへりくだる姿勢であり、なぜ対等な関係であるはずの夫婦にそんな立場の高低をつけなければならないのだと拒む。他人にお願いすると、即座に立場が下がる気持ちになる誇大妄想が邪魔くさい。逆になぜ要望を突きつける時に、上から頭ごなしに、「なぜ〇〇をしてくれないのか」と責める口調でしか伝えられないのかがわからない。そのやり口は対等なのか?私は妻の誇大妄想のせいで、妻の「お願い」を聞くたびに、事前に予見できるはずもないことを予見できたはずだ、すべきだと無闇に詰られ、いちいち嫌な思いをしなければならなくなる。妻の希望のカスタマイズ通りに対応するし、これまでもしてきたんだから、その詰問口調やめない?と言っているだけ。でも妻は「言い方次第でやりたくなくなるというのは、本当はそれ自体をやりたくないからだ」と言って、その言い方に拘る。
そもそも、その問題となった家事については以前、「なぜ主担当でないからといって一切手を出さないの、そんな会社の業務みたいに完全に線を引いて、見て見ぬ振りをするなんて冷淡が過ぎる」と詰られたこともある。その点に触れると、「主担当は私なのだから、その許可なく手を出してはいけない。あんたができるのは、ただ心配しているよ、やろうか?という声がけだけだ」とのこと。口を出して、手を出すフリもして、でも決して触れない。空手の型が何かだろうか。いずれにしても、そんな一挙手一投足、妻の気にいる振る舞いを完徹しなければならない筋合いはない。私はプログラミングを施したペッパー君ではない。自分の思考、自分の感情がある。それそのものを拒むならば私は不要だ。自分のクローンでも作れ。そう吐き捨てた。そしたら妻はまた家のものを投げ散らかして「出ていけ」と金切り声を上げ続けた。
で、その後どっちが出ていくか押し問答ののち、なぜか妻が出ていくと言ってスーツケースに荷物を詰めて飛び出したが、妻は30分ほどして帰ってきてさめざめと泣き始めた。
挙句、2人の関係がちょっとうまくいかないからって簡単に家庭を壊そうとするなんて無責任だ、子どもを悲しませたくないと言い出す。いや、だからそれを言うならあなたこそ、完全に私を思い通りにコントロールすることを妥協しろよ。家庭の維持存続は妥協と折衷案と歩み寄りの連続だ。時には自分が最も譲れないものですら譲らなきゃならない。でそれを譲らないと頑なだからもうおしまいですねという話になったのに、何を交渉しているのだと呆れる。
結論としては、私はその家事に一切触れないということ、でも遅滞が生じている場合は「大丈夫?」と声かけだけはすることが取り決めとして交わされた。妻が精神不安定になっている事情などを吐露し、言い過ぎの面があったと折れたので、その点に理解を示して自分も態度が頑なだったと詫び、言い方の件は水に流した。泣かれると自分も途端に弱くなり、もうどうでも良くなってしまう。そのせいで10年以上もずるずると関係を繋いできてしまった。それにしても、8時間議論して、発狂されて、殴られて、家出騒動の挙句にようやく引き出せる譲歩。妻は何でそんなに男に対して譲ることを屈辱に感じるのか、昔虐待を受けたとか性被害にあったとかがないと説明がつかないくらい、ポーズであっても下手に出ることができない。極度の男性不信を根源に感じる。
妻はシングルになっても問題ない収入があるのに、何が不安なんだろう。そんなに男を信じられないならば、一緒の空間にいることが苦痛だろうに。私は子どものために養育費とローンを欠かさず払う人間だよ。妻が子育てから解放されたいなら私が育てるよ。全てが妻にとって都合の良い環境整備に貢献する欲のなさと律儀さを私は持っているのに、それを信じて貰えないのは悲しいことだ。一緒に暮らしたいなら愛してほしいし、信じてほしい。愛せなくて信じられないなら、ATMに徹するから解放してほしい。